周回遅れのごめんなさい、
人生は思うようにいかない。 3年くらい前までは、自分の行動で何かが変わるような気がしていた。演劇を始めてみたり、辞めてみたり、受験勉強をしてみたり、アイドルを好きになったり、ロックバンドを聴くようになったり、東京に行ったり。 地元にいるのは窮屈だった。仲のいい友達がいたわけでもなく、観光地でもなく、好きなものといえば家の周りにいたキジくらいだった。 不真面目でヤンキーとつるむようなタイプだった3つ上の兄が勉強に目覚めたのは、高校受験がきっかけだった。受験勉強に付き合っていた時に高野山の読み方がわからなくて笑われたのを今でも覚えている。どうせ長続きしないだろうと思っていた。高校に入学してからも、兄の部屋からは毎晩遅くまで英単語を音読する声が聞こえた。私は間違いなく、兄に嫉妬していた。交友関係も広くて、社交的で、私が勝てるところといえば勉強くらいで、このままでは自分の居場所がなくなるような気持ちになった。 1度目の大学受験で兄が志望校に受からなかったと聞いて、内心私はホッとしていた。これで負けなくて済む、と思った。きっと彼は悔しさを抱えながら地元の大学に通って、地元の企業に就職して、いつか結婚などをして私の前からいなくなるのだろうと思った。 兄は諦めなかった。浪人を決意してから、以前にも増して勉学に励んでいた。何がそこまで彼を突き動かしているのか分からなくて、怖さすら感じた。 高校1年の冬、兄が2度目の大学受験で晴れて志望校に合格した。合格通知が来た時、私はリビングで兄と一緒にいた。ビリビリと乱暴に封筒を開けて、合格通知に何度も目を通して、塾の先生に報告してくると叫んで、そのまま着替えもそこそこに家を飛び出した兄を眩しく思った。 兄は間違いなく眩しかった。私にとっては太陽といっても過言ではなかった。幼い頃は兄の言うことに同意してばかりで、意地悪な彼が嘘をついて、それに同意した私をニヤニヤしながらいじることも多かった。ずっと兄の後を追いかけていた。高校受験の時も、兄の着ている制服が着たくて進学先を決めた。 同じ学校に行ったら、同じように努力したら、私も兄のようになれるのかもしれないと思っていた。私には明るさも努力する才能もなかったと分かったのは、高校に入って間もない頃だった。中途半端な器用さだけはあったので、特に努力をせずともいい成績がとれた。学年1位を取るたびに、母はきまって「お兄ちゃんと違って勉強してないのにすごいね」と言った。かけてほしいのは誰かと比較した評価じゃなくて、ましてやお兄ちゃんとの比較じゃなくて、せめてただすごいねって認めてほしくて、私は。努力をすることも出来なくて、明るくもなくて、可愛くもなくて、でもひとつくらいは生きるに値する何かがあると信じさせてほしくて。 悔しくて悔しくて、どうやったら認めてくれるだろうと思った。兄が2度落ちた地元の国立大学と、兄の進学した大学と並ぶような東京の大学とを受けた。独力で現役合格してみせたら、私のことを褒めてくれるかもしれない。馬鹿みたいな考えだった。劣等感とプライドがぐちゃぐちゃになって、1冊だけ買ってもらった赤本を暗記するくらい何度も解いた。 「受験した大学全てに合格したら、東京に行ってもいい」そう言った母に、全部の大学の合格通知を見せた。お兄ちゃんが落ちたあの大学も、先生に受けるよう言われた大学も、唯一自分で選んだ早稲田大学も、全部受かったよ。すごいかな。褒めてくれるかな。 でも、人生は思うようにいかない。 母は「1度くらい挫折した方が良かったのにね」としか言わなかった。高校に合格報告にいくのが嫌になった。何人の先生に褒められても、満たされた気にはならなかった。私が認めて欲しかったのは母だったのだと初めて気づいた。 家を出て東京に行こう、と思った。東京で一人暮らしをして、大学に通って、何かやりがいを見つけて、そこそこの企業に就職してそこそこの年齢で結婚して、でも絶対に家には帰らない。 人生は思うようにいかない。 そんなぼんやりとした夢は、どうしても上京したいなら兄に頭を下げて同居させてもらいなさい、と告げられた瞬間に崩れ去った。屈辱だ。私は私なりに努力して、兄に勝てるようにと思っていたのに、やっと勝てたと思ったのに。喉が締め付けられるような悔しさを感じながら、兄に頭を下げた。 別にいいよ、と興味もなさそうに言った兄に、憎しみすら覚えた。先に生まれただけで、少し努力をしたくらいで、どうしてこんなにも違うのか。ずっとずっと悔しかった。私はどうして先に生まれなかったのだろう。きっと彼がいなければ私は実家を出ようなんて思わなかったのだろうけど、ほんの数歩先を歩く人間がいるだけで比べられることに嫌気がさした。 一緒にゲームをしたり、朝まで好きなアーティストのライブ映像を見たり、私たちの共同生活は思えばそんなに悪くなかったような気もする。荒川のほとりの、雨が降ったら沈んでしまいそうな古い一軒家での生活は嫌いじゃなかった。不満なんて雨漏りすることとネズミが住んでいることだけだった。兄に対する劣等感は決して嫌悪感ではなかったし、受験という尺度を失ってようやく兄妹らしい関係になったようで嬉しかった。家にいる時間は長くなかったけど、一緒にコンビニに買い物に行ったり、家具を見に行ったりする日々は窓からさす日差しと同じに穏やかで嫌いではなかった。 人生は思うようにいかない。 兄妹との同棲は不便だ、なんて愚痴を言いつつも愛着の湧いていた兄との生活は、蝉の鳴き声にも慣れはじめた2度目の夏、母からの電話で終わった。 「お兄ちゃん実家に帰るから、引っ越し先探しておきなさいよ」1分にも満たない短い会話だった。上京してからは実家に連絡をすることも減って、お世辞にも良好な親子関係とは言い難かった。この頃には兄との会話も減り、そもそも顔を合わせる機会も減り、2年間共に過ごした相手の変化に何も気づかなかった。 兄が留年していたことも、うつになっていたことも、何も知らなかった。 私と一緒に生活するのが辛くてうつになったのだと母に言われても、何も言えなかった。憧れていた兄を、自分が傷つけていたのかもしれないとは考えたくもなかった。 一緒に住んでいた家を引き払って、アパートを借りた。兄と住んでいた家からは遠く離れた街、兄と住んでいた街よりもずっと栄えていて、駅前にはシャッターだらけの商店街なんてないし隅田川の花火も見えない、スカイツリーも浅草も遠くて、雨漏りもしないしネズミも出ない、前の家よりずっとずっと狭い物件にした。 一人暮らしも案外辛くなかった。部屋は狭くなったしテレビはなくなったけれど、誰にも気を遣わなくて済んだ。前の家よりも友達と会いやすくなった。コンビニに行く時もゲームをする時もDVDを見る時もひとりぼっちなことだけが辛かった。とはいえそれも1年も経てば慣れてしまった。 兄は今、地元のアパレルで働いている。相変わらずゲームが好きらしくて、部屋にはゲーム関連のCDが何枚も置いてあった。正月にしか帰省しない私は、年始のセールで7連勤の兄と顔を合わせることはまずない。何を話していいかも分からないまま1年が経っている。 人生は思うようにいかなかった。 何一つ想像通りではなかった。特別なことなんて何もない。特別な人なんていない。悲しみも痛みも生きている限りは降りかかる。私は未だに、かける言葉も見つからないまま惰性で実家に帰っている。 それでも人生は生きるに値する、と、思って、私は、生きている。